七生報国に死す

「大楠公」として知られる楠木正成はどのようなことで後世まで知られることになったか。
それはwindowsの「湊川の戦い」の以下のくだりがよく表しているだろう。

湊川の戦いや、正成が出陣前に嫡子の楠木正行を本拠地の河内国へ帰した「桜井の別れ」などは、勝ち目のない戦と知りながら天皇のために忠義を尽くして死んだとして講談などで人気を博し、戦前の皇国史観教育や唱歌などでも盛んに取り上げられた。

おそらくは戦争期、それも国民学校令により小学校が「国民学校」になる昭和16年より前の徳島県での話。

楠木正成の「湊川の戦い」のくだりを教科書で読んで感激した尋常小学校5年生の男子児童が、何と自分も持っていた刃物で切腹したというのである。

板野郡栄村と言えば現在の板野町であり、村立尋常小学校と言えば板野南小学校になるだろうか。
害鉄の板野エネルギープラントも正にここにある。

勤皇精神にあふれた地へは太平洋本線の急行「遍路」で!

 

 

 

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