東北
- さよなら蒸気機関車(S43.10.4中日映画社) 1968年10月4日
- 国鉄盛岡工場の騒音と排水に周辺住民の苦情(S42.12.13岩手日報) 1967年12月13日
- 貨車不足で沼宮内駅は丸太の山(S42.11.28岩手日報) 1967年11月28日
- 昭和37年度の盛鉄局管内の駅勢番付(S38.5.29岩手日報) 1963年5月29日
- 奥羽本線碇ヶ関〜津軽湯ノ沢で貨車脱線(S38.5.14朝日) 1963年5月14日
- 上野〜八幡平に直通列車を(S37.1.5岩手日報) 1962年1月5日
- 新幹線のレールは釜石製鉄所でも製造していた(S36.7.24岩手東海新聞) 1961年7月24日
- 釜石鉱山と製鉄所を結ぶ社線を早く撤去して下さい(S36.7.24岩手東海新聞) 1961年7月24日
- 「陸中号」ようこそ釜石駅へ(S36.7.22岩手東海新聞) 1961年7月22日
- 岩手東部バスが全面ストで貨物列車で通勤する客も(S36.4.28岩手東海新聞) 1961年4月28日
- 昭和35年度は青森〜秋田がディーゼルカーに(S35.1.16東奥日報) 1960年1月16日
- 奥羽線の特急は秋には実現する筈(S35.1.9東奥日報) 1960年1月9日
- 3等寝台車が好評なので増備・鉄道公安官に無線機(S34.12.30東奥日報) 1959年12月30日
- 新装なった青森駅(S34.12.26東奥日報) 1959年12月26日
- 岩手開発鉄道に新しい機関車(S34.12.19岩手日報) 1959年12月19日
- 貨車不足でリンゴが滞貨(S34.12.9東奥日報) 1959年12月9日
- 直前横断などで相次ぐ列車事故(S34.12.9東奥日報) 1959年12月9日
- 釜石軽便鉄道から50年(S34.8.17岩手東海新聞) 1959年8月17日
- 逃げ回っていた殺人犯が急行「みちのく」で盛岡に護送(S33.5.15岩手日報) 1958年5月15日
- 花見シーズンを前に花巻電鉄に新車(S33.4.26岩手日報) 1958年4月26日
- 仙山線で世界初の交直両用電車が試運転(S32.12.11東奥日報) 1957年12月11日
- 開発進む七戸地区砂鉄(S32.12.9東奥日報) 1957年12月9日
- 年末年始は急行「いわて」復活など(S32.12.8東奥日報) 1957年12月8日
- 仙台〜盛岡にディーゼルカーの快速列車を運転する計画(S31.9.3河北新報) 1956年9月3日
- 貨車不足で各漁港からの魚を積み出せず(S31.9.3河北新報) 1956年9月3日
- 仙台〜盛岡に快速列車計画(S31.9.3河北新報) 1956年9月3日
- 台風におびえる仙鉄局の線路(S31.9.2読売宮城版) 1956年9月2日
- 仙台駅前から屋台が姿を消す(S31.8.14河北新報) 1956年8月14日
- 久慈で修学旅行に行けない子らに浄財を募って日帰り旅行(S31.5.10岩手日報) 1956年5月10日
- 時速123キロの特急列車(S30.12.28河北新報) 1955年12月28日
- 仙台駅にしめ縄(S30.12.28河北新報) 1955年12月28日
- ゾッとする危険鉄橋やトンネルを盛鉄局が改修(S30.12.1岩手日報) 1955年12月1日
- 盛鉄局管内にはゾッとするような危険箇所が200箇所も(S30.12.1岩手日報) 1955年12月1日
- 盛鉄局は夜間急行増発などダイヤ改正計画(S30.11.26岩手日報) 1955年11月26日
- 赤字の山田線にディーゼルカーという強心剤を(S30.11.20岩手日報) 1955年11月20日
- 山田線の赤字は既に3億円(S30.11.16岩手日報) 1955年11月16日
- この道30年 お召し列車も運転した機関士(S30.11.15岩手日報) 1955年11月15日
- 汽笛のまにまに 盛岡駅の24時間(S30.11.13岩手日報) 1955年11月13日
- 久慈駅にキハ10系がお目見え(S30.11.9岩手日報) 1955年11月9日
- 洞爺丸の総裁勧告は不要(S30.7.16大阪新聞) 1955年7月16日
- 国鉄「洞爺丸の事故は不可抗力」(S30.7.15大阪新聞) 1955年7月15日
- 東北本線に清水原駅が開業(S30.7.1岩手日日) 1955年7月1日
- 一ノ関機関区が1千万キロ無事故達成(S30.6.21岩手日日) 1955年6月21日
- 山田線けさ開通(S29.11.21岩手日報) 1954年12月11日
- 長崎でも報じられた洞爺丸事故(S29.9.28長崎民友) 1954年9月28日
- 10月からの新ダイヤ(S29.9.17岩手日報) 1954年9月17日
- 「魔の踏切地帯」「陸の親不知」と呼ばれた岩手川口〜一戸間(S29.8.22岩手日報) 1954年8月22日
- 10月からダイヤ改正で列車増発し盛岡〜東京9時間(S29.8.19岩手日報) 1954年8月19日
- 八戸線の尻内〜陸中八木にガソリンカー運行開始(S29.8.16岩手日報) 1954年8月16日
- 天皇陛下は盛岡を出発し北海道へ(S29.8.8岩手日報) 1954年8月8日
- 天皇陛下がお召し列車で盛岡にお立ち寄り(S29.8.7岩手日報) 1954年8月7日
- 水沢付近で貨物列車が踏切事故(S29.8.4岩手日報) 1954年8月4日
- 岩教組の委員長が見たモスクワの地下鉄(S29.8.2岩手日報) 1954年8月2日
- 一ノ関駅に七夕飾り(S29.7.30岩手日報) 1954年7月30日
- 山田線の復旧全通まで急ピッチ(S29.7.30岩手日報) 1954年7月30日
- 「無人輸送」というヤミ米輸送手段(S29.7.30岩手日報) 1954年7月30日
- 岩手県最南端の駅・油島駅スタート(S29.7.3岩手日報) 1954年7月3日
- 山田線の復旧作業は順調に進行中(S29.4.8岩手日報) 1954年4月8日
- 日本の線路は英国より狭い(S29.4.6読売下町版) 1954年4月6日
- ソ連からの帰還者が盛岡駅に到着(S29.3.25岩手日報) 1954年3月25日
- 東北本線の馬淵川橋梁の架け替え(S29.3.11岩手日報) 1954年3月11日
- 東北本線清水原信号場の駅昇格は翌年に実現(S29.3.11岩手日報) 1954年3月11日
- 市制したばかりの大船渡市を結ぶ市内バス(S27.10.18岩手日報) 1952年10月18日
- 国体選手が元気に盛岡駅を出発(S27.10.18岩手日報) 1952年10月18日
- ヘルシンキオリンピックで活躍した選手が盛岡へ行くために急行「みちのく」で上野駅を出発(S27.10.11岩手日報) 1952年10月11日
- 鉄道80周年「動く鉄道博」が盛岡駅構内特設会場で開催(S27.10.8岩手日報) 1952年10月8日
- 八幡平に国鉄山の家「もみ山山荘」オープン(S27.10.7岩手日報) 1952年10月7日
- 花巻駅の朝のラッシュ・アワー(S27.9.19岩手日報) 1952年9月19日
- 岩手県副知事が国鉄にキャベツ輸送代の値下げ交渉(S29.8.31岩手日報) 1952年8月31日
- 講和条約発効で進駐軍専用車もなくなります(S27.3.1河北新報) 1952年3月1日
- 豪雪で東北本線も奥羽本線も仙台市電もダイヤ混乱(S27.2.22河北新報) 1952年2月22日
- 長町操車場建設のために塩釜〜長町の岩石列車がピストン運行(S27.2.22河北新報) 1952年2月22日
- 仙台市電は乗り換えなしで原町へ行けるように工事(S27.2.19河北新報) 1952年2月19日
- 仙鉄局の鉄道官舎がモダンなアパートに(S27.2.14河北新報) 1952年2月14日
- 橋場線のために「盛岡駅北口」があった(S26.3.9夕刊いわて) 1951年3月9日
- きょう釜石線開通式(S25.10.10岩手日報) 1950年10月10日
- 釜石線開通を祝賀する各界からの広告(S25.10.6岩手日報) 1950年10月6日
- 宮沢賢治と岩手軽便鉄道(S25.10.6岩手日報) 1950年10月6日
- 釜石線八景が読者投票で決まる(S25.10.5岩手日報) 1950年10月5日
- 建設中の釜石線はさながら観光鉄道(S25.10.1岩手日報) 1950年10月1日
- 釜石線が遠野まで「広軌開業」(s24.12.11岩手新報) 1949年12月11日
- 遠野駅は「岩手軽便鉄道」から「釜石線」に(S24.12.9岩手新報) 1949年12月9日
- 9月15日からの列車ダイヤ(S24.9.1岩手新報) 1949年9月1日
- 東北本線盛岡〜厨川間で通信線切断事件(S24.7.18岩手新報) 1949年7月18日
- 下山総裁の行方不明が報じられた日の盛岡管理部管内(S24.7.6岩手新報) 1949年7月6日
- 国鉄の第1次整理は全国で3万人、盛岡管理部内では760人(S24.7.5岩手新報) 1949年7月5日
- 行政整理に対し「クビを守れ」(S24.7.3岩手新報) 1949年7月3日
- この年最初の引揚列車(S24.7.3岩手新報) 1949年7月3日
- 吉田首相「国鉄の行政整理はあくまで断行」盛岡管理部内は2052人(S24.7.2岩手新報) 1949年7月2日
- 大船渡線を仙台管理部から盛岡管理部に移管するのは反対(S23.7.14岩手新報) 1948年7月14日
- 車体に「馘首絶対反対」(S21.8.24岩手日報) 1946年8月24日
- 8月10日からダイヤ改正(S21.8.8岩手日報) 1946年8月8日
- 国鉄時刻改正で急行列車復活(S20.9.23岩手日報) 1945年9月23日
- キノコ狩り列車運転(S20.9.11岩手日報) 1945年9月11日
- 動員されていた学徒の帰省列車、臨時列車の運転など(S20.8.22岩手日報) 1945年8月22日
- 盛岡工機部での玉音放送の拝聴(S20.8.16岩手日報) 1945年8月16日
- 敵機来襲が増え列車通勤者が減じている(S20.8.15岩手日報) 1945年8月15日
- 盛岡機関区長が国策型の藁寝台を考案(S18.4.8岩手日報) 1943年4月8日
- 記者が山田線の8620に同乗して決死取材(S16.1.28岩手日報) 1941年1月28日
- 花輪線で浸水し陸中花輪〜小豆沢でガソリンカー脱線(S14.8.10岩手日報) 1939年8月10日
- 山田線が釜石まで全通して祝賀式(S14.7.18岩手日報) 1939年7月18日
- 日本旅行協会(ツーリスト・ビューロー)盛岡営業所が川徳デパートにお目見え(S13.4.19岩手日報) 1938年4月19日
- 千厩駅の営業成績躍進(S13.4.19岩手日報) 1938年4月19日
- 山田線開通に大槌町は歓喜一色(S13.4.6岩手日報) 1938年4月6日
- 山田線の吉里吉里〜大槌間が開通(S13.4.5岩手日報) 1938年4月5日
- 盛岡鉄道工場では貨車を新製することに(S13.4.2岩手日報) 1938年4月2日
- 盛岡運輸事務所管内の人事異動(S13.4.1岩手日報) 1938年4月1日
- 山田線の開通する大槌町では豪華な祝賀式典を予定(S13.3.26岩手日報) 1938年3月28日
- 山田線の岩手船越〜大槌間の開業迫る(S13.3.8岩手日報) 1938年3月8日
- 盛岡〜釜石や北福岡〜荒屋新町に省営バスを!(S13.3.3岩手日報) 1938年3月3日
- 鉄道省稀有の通告「旅行を見合わせよ」(S11.1.24読売) 1936年1月24日
- 鉄道省ではスキー列車増発(S10.12.12読売) 1935年12月12日
- 磐越東線の豪雨災害の現場(S10.10.29読売) 1935年10月29日
- 磐越東線の惨事の続報(S10.10.29読売) 1935年10月29日
- 豪雨で磐越東線が大惨事(S10.10.28読売) 1935年10月28日
- 3か所で脱線転覆(S9.5.15読売新聞) 1934年5月15日
- 函館大火の避難民が青森に入港(S9.3.24読売) 1934年3月24日
- 三陸大津波の支援に読売新聞が木炭寄贈(S8.3.12読売) 1933年3月3日
- 盛岡鉄道工場で車輪仕上職場の竣工間近(S6.9.12岩手日報) 1931年9月12日
- 田中隆三文相夫人が新潟で講演のため上野駅を出発(S6.9.5岩手日報) 1931年9月5日
- 米沢駅の雪捨て列車(S6.1.15東京朝日) 1931年1月15日
- 東京で青森で列車衝突続出(S5.9.10東京朝日) 1930年9月10日
- 久慈線(原文ママ)開通記念祝賀会(S5.3.28岩手日報) 1930年3月28日
- いよいよ久慈線(原文ママ)が全通します!(S5.3.27岩手日報) 1930年3月27日
- 仙台鉄道局では採用者を抽選で決めることに(S5.3.21岩手日報) 1930年3月21日
- 開通式間近の久慈線(原文ママ)(S5.3.18岩手日報) 1930年3月18日
- 青木鉄道次官が盛岡工場視察(S5.3.16岩手日報) 1930年3月16日
- 岩手軽便鉄道では4月からメートル法を導入します(S5.3.16岩手日報) 1930年3月16日
- 久慈〜尻内間の3月27日からの時刻表(S5.3.16岩手日報) 1930年3月16日
- 踏切事故防止パンフレット「鉄道線路は冥土への道」(S5.3.11岩手日報) 1930年3月11日
- 大船渡線の中間駅に従業員のいない無人停車場を(S5.3.7岩手日報) 1930年3月7日
- 仙台鉄道局の人事異動で盛岡駅長は山形駅長から(S5.3.4岩手日報) 1930年3月4日
- 青森では車掌が貨物を抜取り売捌き、板橋では魔の踏切(S元.12.30東京朝日) 1926年12月30日