社史
害鉄の濫觴
害鉄の濫觴は遠くジュラ紀に遡る。
当時、蒸気機関が無かったために、大阪~芦原橋(現在の太平洋本線)間を、恐竜が客車を引っ張る「恐車」として開業した。
この恐車、大阪の類人猿には「めっちゃ便利やわ」と大変好評であった。
ジュラ紀の電車であったため「ジュラ電」と呼ばれ親しまれた。
当時のサボは甲骨文字で書かれていたことが、「神の手」によって考古学的に明らかになっている。
恐車事業の成功に自信を得た害鉄では、次第に路線網を広げ、コンプソグナトゥス(最速の恐竜)による急行列車や、ティラノサウルス(最大の恐竜)による貨物列車を走らせるなど、次第にサービスを拡充していった。
この時期が、害鉄の最初期の黄金時代と言うことができる。
路線網の拡大
その後、害鉄では、自殺の名所・東尋坊までの路線を計画するに至った。
その免許申請にあたり、類人猿帝国議会では「そんな所に鉄道を敷いて、三葉虫でも乗せるつもりか」という非難すら出たが、当時のCEOは、「鉄道営業法には三葉虫は乗せないと書いております」と平然と答弁したというエピソードも残っている。
そのような国会の紆余曲折や、柳ヶ瀬や杉津の難工事を経て、現在の悲しみ本線に当たる区間が開業した。
このほか、瀬戸内方面(現在の日韓本線)や山陰方面(現在のあかん線)にも着実に路線網を伸ばしていった。
突然の悲劇
しかし、害鉄の繁栄も長くは続かなかった。
恐竜が絶滅したのである。
このため、列車を走らせることが全くできなくなり、害鉄は休業を余儀なくされることとなった。
害鉄の再興と小口貨物輸送
中世に入り、魔女が一世を風靡するようになった。
ここで、害鉄では沢山の魔女を雇い、貨車を牽かせることにした。
魔女は強い牽引力を出すことができなかったが、小口輸送サービス「魔女の宅急便」として、細やかなフィーダーサービスを誇る鉄道として見事に甦った。
しかし、この繁栄も長くは続かない。
魔女狩り裁判が始まり、多くの魔女が絶滅してしまったのである。
また「宅急便」という名称がヤマト運輸の登録商標である事から(一般名詞は「宅配便」)、その方面からクレームが付くと言う不運にも見舞われ、害鉄はまたも運行休止を余儀なくされるに至った。
動力の変化の中で
多くの魔女を失った害鉄では、大航海時代でもある折柄、帆船ならぬ「帆車」を製造し、風による動力で列車を運行した。
この頃になると、馬車鉄道が多く誕生し、害鉄のライバルとなったが、害鉄では頑として馬車は導入しなかった。
それは、害鉄のこれまでの社史において「恐竜の絶滅」「魔女狩りによる魔女の絶滅」という、致命的な被害がトラウマになっていたからである。
取締役会や株主総会で「害鉄でも馬車を導入するべきだ」という意見が出ても、「高い金を出して馬を買い入れても、馬が絶滅したらどうするんだ!」という反対意見に押されてしまい、馬車の導入はかなり後年の事となってしまう。
このことが、害鉄の発展を大きく遅らせてしまうことになる。
鉄道反対運動
産業革命とともに、動力も馬から蒸気機関となり、鉄道にも蒸気機関車が誕生した。
この「陸蒸気」なる得体の知れない物に畏怖した昔の村人たちは、次々と鉄道反対運動を起こした。
しかし、そんなことは意に介さない鉄道帝は、反対する者を次々に殺害し、自らの野望の通りに鉄道網を展開していく。
鉄道帝の略歴の中で、
そして喧嘩も強く、87000人を殺害。
とあるが、死者の殆どが、この鉄道反対運動の時のものである。
中には、村全部を焼き払い絶滅させるという残虐なものもあったという。
害鉄の社史には、常に「絶滅」という言葉がついて回ることになる。
関西私鉄としての害鉄
関西の私鉄は、阪急が宝塚に歌劇団を設置したり、京阪が香里遊園地(のちのひらかたパーク)を開設したり、阪神が甲子園球場を開設したりと、沿線に娯楽施設を設け、乗客の誘致を図ったことは有名な話である。
大阪を拠点とする害鉄も、その例に洩れず、積極的に沿線に娯楽施設を設けた。
それが、
- 福原トルコ村(神戸市)
- 雄琴トルコ村(滋賀県)
- 筑豊ヨハネスブルグ村(福岡県)
と言った一連の娯楽施設だったのである。
これらの娯楽施設の設置により、害鉄は順調に乗客数を伸ばすこととなった。
熾烈な競争
害鉄はまた、関西私鉄として熾烈な競争に晒されることとなった。
そのライバルのうちの1つが西日本急行である。
神戸と名古屋を結ぶこの私鉄に一方的なライバル意識を燃やした害鉄は、次から次へと奇矯な列車やサービスを展開していったが、その奇矯さから一時的に話題を呼ぶことはあっても、すぐ飽きられてしまい固定的な乗客が付くことがなかった。
また、頭狂本線における名古屋のターミナルが、倒壊死やヨタと、名古屋の中心部から遠かったことも災いした。
その上、害鉄ではCEOが「列車なんて俺が好きな時に走らせるんだ!」と言って憚らず、ダイヤの読めない害鉄としてこれまた客足を遠のかせる原因となった。
この西日本急行との競争は、一方的にライバル宣言した害鉄が勝手に負けるという情けない結果となった。
日韓トンネル開業
玄界灘の向こうに、合同結婚式や訪問販売で巨万の富を得ている新興宗教があった。
その新興宗教の教祖が、何を思ったか「日韓トンネル」の建設を口走ったのであった。
(Wikipedia.jp:日韓トンネル)
その新興宗教は、各大学では「原理研に注意!」などと忌み嫌われるカルト宗教であったが、それはそれとして、日韓トンネルは害鉄には福音であった。
大阪~北京東間に特急「特定あじあ」号を走らせるなど、日本と特定アジアの間の架け橋として、害鉄は重要な地位を占めるに至った。
高速化の時代
航空機の発達、モータリゼーションの進展にしたがい、害鉄ひいては鉄道輸送が苦境に立たされることになった。
害鉄でも、高速輸送が喫緊の課題とされ、技術陣は高速列車の開発に勤しむこととなった。
その結果誕生したのが「超機関車」である。
超機関車は、「とにかく速ければ何でもいい!」というのがコンセプトであり、その通り高速で走ったが、騒音は物凄く、害鉄の路線の近くは地価が極端に下がるという現象まで起こった。
躍進を続ける害鉄
創業から2億年を迎えようとしている害鉄は、今や大阪民国と特定アジアを結ぶ重要な架け橋として、その歩みを今なお続けている。
(増補)都市の発展と共に
今や、大阪民国の首都・大阪広域市は、Wikipedia.jp:メガシティをはるかに超越する、ギガシティー、テラシティーに変貌を遂げている。
福祉先進国?である大阪民国を支える足として、害吉鉄道はITO事業者の導入による上下分離方式を導入するなどの、斬新な試みを取り入れている。