ウンコう日誌(第855話)

それは、かつて南方の密林を走ったC56だった。

泰緬鉄道――いまは歴史書の中でしか語られないその路線で、赤い土煙を浴び、雨季の濁流に耐え、ジャングルの匂いをまとったまま帰ってきた。

昭和二十一年の秋。
博多港に陸揚げされたその小さな機関車は、どこか異国の気配を残していた。煙室扉の縁にはうっすらと錆、ランボードの下には取り切れない泥の跡。日本の空気に触れても、すぐには「内地の顔」には戻らなかった。

機関区の若い助士が言った。
「これが……あの泰緬帰りですか」

古参の機関士は黙ってボイラーを撫でる。
「小さいくせに、よう生きて戻ったな」

C56はもともと軽便線区向けの優等生だった。
華奢な軸配置1C1、軽い軸重、よく回る動輪。
だが南方では、その小柄な身体で兵站を背負わされた。物資を引き、時には人を引き、過酷な勾配を喘ぎながら越えた。

整備庫で分解が始まる。
ボルトを外すたび、密林の湿気が抜けていくようだった。

煤にまみれた煙管。
擦り減ったブレーキシュー。
そして、見慣れぬ刻印のある工具の置き忘れ。

「あっちで直した跡やな」
整備主任がぽつりと言う。
「向こうの工場か、野戦修理か……よう持たせたもんや」

やがて再塗装が施される。
黒は深く、赤い動輪は鮮やかに。
けれども、どこかに残る。
戦地の時間が。

配属先は九州のローカル線だった。
山あいの駅で、ランドセルを背負った子どもが指をさす。

「ちっちゃい汽車や!」

C56は短い汽笛を鳴らす。
それは密林で鳴らした警笛とは違う、やわらかい音だった。

客車は二両。
のどかな田園を走る。
稲穂の匂い、川面のきらめき。

かつて枕木の下に眠っていた熱帯の赤土は、もう見えない。
けれど、ボイラーの奥底には、確かに刻まれている。

帰還した機関車は、戦争を語らない。
ただ蒸気を上げ、今日も走る。

小さなC56は、
日本の空の下で、
もう一度「日常」を牽きはじめた。

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