ウンコう日誌(第850号)

薄曇りの朝、コンクリ桟橋駅から一本奥に入った留置線で、蓄電池動車は静かに目を覚ましていた。パンタグラフも煙突も持たないその車両は、昨夜のうちに発電所の裏で充電を終え、今はただ緑色の車体を朝露に濡らしている。エンジン音はない。あるのは、床下の電池が発する、かすかな唸りだけだった。

この動車は害吉鉄道でもっとも地味な存在だった。蒸気機関車は黒い煙で威張り、ディーゼルカーは油の匂いで自己主張をする。だが蓄電池動車は違う。音もなく、煙もなく、夜明け前の貧民街を起こさない。それが、この車両に与えられた役目だった。

始発前、運転士の梁(リャン)はブレーキハンドルに手を置きながら、ホームの方を見やった。小さな木造の待合室の前に、数人の人影が集まっている。コンクリ桟橋に流れ着いた労働者、釜ヶ崎へ向かう日本列島各地の流民、国籍も言葉もばらばらだ。

「今日も静かに走ろか」
梁がそう呟くと、後ろから車掌の金(キム)が答えた。
「그래, 오늘은 싸움 없으면 좋겠다わ。バッテリー車やし、荒れたら逃げ場あらへん」

発車の合図も最小限だった。ベルが一度、小さく鳴る。蓄電池動車は、まるで考え事をやめるように、すっと動き出した。レールの継ぎ目を越える音さえ、布で包んだように丸い。

途中の無名停留所で、老婆が一人乗り込んできた。荷物は小さな布袋だけ。車内は静まり返り、誰もが窓の外を見ている。工場跡、バラック、干された洗濯物。大阪民国の裏側が、音もなく流れていく。

芦原橋(本社前)に近づく頃、電圧計の針がわずかに下がった。梁はそれを見て、速度を少し落とす。
「まだいけるな」
「うん、釜ヶ崎までは 충분や」

終点・釜ヶ崎。動車が止まると、乗客たちは無言で降りていった。誰一人、振り返らない。蓄電池動車は拍手も罵声も浴びない。ただ、人を運び、静かに役目を終える。

ホームが空になると、金がぽつりと言った。
「この車、時代遅れ言われとるけどな」
梁は前を見たまま答えた。
「せやけど、夜明け前には、こいつが一番必要や」

再びベルが鳴り、蓄電池動車は折り返しの準備に入る。誰にも語られないが、確かにそこにある朝の仕事を背負って。静かなモーター音だけを残しながら。

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