ウンコう日誌(第822号)

夜明け前、コンクリ桟橋の空気は潮と油と、言葉にならない雑多な匂いが混じっていた。
107号はまだ眠っているように見えたが、屋根の蓄電箱の奥では、昨夜ため込んだ電気が静かに目を覚ましていた。石炭も軽油もいらない。音も煙も出さない。ここではそれが都合がよかった。
ホーム脇の詰所から、係員が顔を出す。
「ほな、行くで。今日は芦原橋まで、途中は静かに頼むわ」
運転士は頷くだけで、制御器をそっと入れた。107号は、ため息みたいな音を一つ残して動き出す。
屋根には、荷物と人が並んでいた。箱、布袋、籠、そして人。国籍も来歴もばらばらだ。
「慢点啦!还没坐稳呢!」
「아이구, 이거 떨어지면 끝장이다…」
「兄ちゃん、しっかり掴んどき。次、揺れるで」
車内はさらに静かだった。窓の外で、朝のコンクリが流れていく。
蒸気動車なら咳き込み、ディーゼルなら唸る区間を、107号はただ滑る。音がないぶん、乗客の息遣いと、腹の鳴る音だけがはっきり聞こえた。
小さな仮設ホームに止まる。名もない停留所。詰所の前で、老婆が待っていた。
「오늘도 오는구나, 전기차…」
107号は応えるように、短くベルを鳴らす。
老婆は米袋を一つ預け、代わりに人を一人降ろした。荷と人の交換。ここでは同じ意味を持つ。
芦原橋が近づくと、屋根がざわつく。
「着いたで。釜ヶ崎行くやつ、後ろや」
「谢谢啊!」
「고맙다, 107!」
最後に、運転士がブレーキを締めた。
107号はぴたりと止まり、また静かになった。蓄電池の残量は、まだ余裕がある。今日も何往復かはできるだろう。
鉄道帝が描く大東亜の地図なんて、107号は知らない。
ただ、ここに来た人と、次へ行く人を、音を立てずに運ぶ。それだけだ。
コンクリ桟橋から芦原橋へ。
静かな電気の列車は、今日も害吉鉄道の片隅を、確かに走っていた。





