ウンコう日誌(第816号)

コンクリ桟橋の朝は、海から吹く油じみた風と、どこの国の言語ともつかない怒号で始まる。そこにひょこ、と鼻先を出したのが——害吉鉄道の蓄電池動車《アシッド907》。

車体は濃い緑と薄い緑のツートン、鼻先には、いつ誰が付けたのか分からない巨大な排障器。元々は大阪民国の軍港で弾薬運搬をしていたが、戦後の混乱で用途を失い、バッテリーだけが取り替えられながら「生き延びてきた」時代遺物である。

その《907》のドアがガコン、と開くと、ホームにいた荷物担ぎの男が叫んだ。

「おいおい、また電池切れ寸前ちゃうやろな!? いまから北津守まで満載やで!」

車内から、ごつい帽子をかぶった車掌が顔を出した。

「だいじょぶや、兄ちゃん。ほら見てみ、ちょっとは充電したんや。……ちょっとだけな」

「ちょっとだけて! ほな途中で止まったらどないすんねん!」

「押したらええやん」

「どこの国の鉄道が蓄電池動車押して走らすねん!?」

アシッド907は、害吉鉄道の中でも「もっとも気まぐれ」という不名誉な称号を持つ。
理由は簡単で、蓄電池の気まぐれと、モーターのご機嫌が一致することが滅多にないからだ。

だが、その気まぐれさこそが、コンクリ桟橋に流れ着いた人々——琉球から、鮮から、南洋から、そして貧しい日本列島各地から渡ってきた労働者たち——の心に妙な親近感を抱かせていた。

「ワシらも気まぐれに流されて来た身や、乗り物も同じやと落ち着くわ」
と誰かが言い、
「途中で止まっても、まあええか、ここも大阪民国やし」
と誰かが笑う。

その日の907は、珍しく調子がよかった。
芦原橋(本社前)を出て、釜ヶ崎支線への分岐を過ぎ、北津守へと滑るように走り出す。

だが、コンクリ桟橋手前——。

「……兄ちゃん、なんか焦げ臭ない?」
「うわ、ほんまや、またモーター焦げとる!」
「いやでも走ってるし、セーフやろ」

ガタガタガタガタ——。

907は最後の力を振り絞るように、桟橋の手前の勾配を登る。
車内の労働者たちは、左右の窓から吹き込む潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。

「ああ……大阪ユニオンより混沌で、堀江新地より騒がしくて、
世界全部がここに流れて来る匂いや……」

やがて、電池が切れかけた音がした。

ピー……。

「止まるぞおおお!!」

運転士の叫びと同時に、907はギリギリのところで停車した。
ちょうど、桟橋の荷役用クレーンが見える位置だ。

「到着や! ……たぶん。」

乗客たちは笑いながら降りていく。
907は黒煙こそ出さないが、車体全体で「ふう……」とため息をついたように見えた。

その日の夕方、芦原橋の車庫に戻ってきた907は、整備士に言われた。

「おまえまたよう頑張ったなぁ……ええ子やで」

すると、車体のヘッドライトが、ほんの少しだけ明るく点いた。
まるで嬉しそうに、誇らしげに。

害吉鉄道において、蓄電池動車907は決して主力ではない。
速くもなく、強くもなく、すぐへばる。

だが、
「流れ着いた者を運ぶ」
という一点において、誰も907の代わりはできなかった。

今日もまた、世界のどこかから漂着した荷物と人生を乗せ、
《アシッド907》は青い軌道の上を、ちょこちょこと揺れながら走っていく。

その姿は、大阪民国という巨大な混沌の象徴そのものだった。

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