第一庶務部

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第一庶務O女史の秘められた随行体験 喜び組

韓国・釜山のアジア競技大会で一躍有名になった「喜び組」は、北朝鮮の重要な国策となっています。 います。金正日の元側近たちは、喜び組の実態を生々しく証言しています。

それによると、喜び組は「満足組」「幸福組」「歌舞組」の三部門に分類され、満足組は性的な奉仕を任務とし、幸福組は身 の回りを甲斐甲斐しく世話する任務であり、歌舞組は歌や踊りで金総書記や外国要人をもてなすといわれています。

海外の評論家やマスコミは、現代のハーレムである、とか、バカ殿様時代のような出来事、等々、半ば亜散れながらの論評を行っています。この、喜び組ははたして金正日および北朝鮮だけの、特異な体質が生み出したものなのでしょうか。

実は、世間から特異な団体と認知されている創価学会にも「喜び組」と同質とみられたセクションがありました。それは、金正日と似た者同士と言われる創価学会の独裁者・池田大作の生んだ池田流喜び組ともいえる存在なのです。元側近などの証言と、私自身の体験を交えながら検証してみます。

昭45年頃、池田大作は、日本の名勝地や温泉地、国立公園の中に豪華施設を百箇所ほど建設しています。金正日の造った、百箇所以上といわれる、喜び組を待機させた別荘と同じような物です。

私は、本部から文化祭の運営責任者として全国に行っていましたので、地元の副会長や県長から案内され、見学する機会がありました、その豪華施設には多額の建設費を掛けていましたが、肝心の池田センセーは、年に1回来るかどうかという程度なのです。

一般の会員が使用する研修所や文化会館は平凡な造りなのですが、さすが、センセーの使用する部屋は、材質が極端に違っているのです。施工費も当然、数倍掛るといわれています。

部屋は概ね2室あり、池田の寝室と、身の周りの世話をする第一庶務の女性職員の寝室が襖一つで仕切られています。池田の寝室の奥には、大人が2~3人入ることの出来る、豪勢で大きな浴室ルームがあり ます。

浴室の作りは、外国産と思われる高価なタイルをあしらったものや、総檜の和風調のものもありました。どうみても、宗教団体の研修所にはふさわしくない、無駄を絵に描いたような施設のですそれでは、池田がこの施設をどのように使用していたかを検証します。

何しろ、この部屋はセンセーと第一庶務の女性しか宿泊できない密室となっているのです。下衆の勘繰りではありませんが、いろいろ想像してしまう方が自然かもしれません。既に現役を退いたO女史が、共通の友人に生々しい密室の体験を述べています。O女史が池田の随行で、ある施設に宿泊した時の話です。

この随行とは、池田大作の全国行脚に同行する人たちで、第一庶務の関係者、学会の最高幹部(婦人部長、女子部長)、取材記者シナノ企画の記録映画班、池田を警護する人間など、さながら大名行列のように移動する人たちのことをいいます。

池田大作が各県、各地域に訪問すると、この池田の宿泊する豪華施設が参謀本部となり、ここから、あらゆる決済事項が発令されていくのです。

したがって、この部屋には、第一庶務の関係者や地元最高幹部たちが、池田に呼ばれて指導を受けたり懇談したりして出入りすることになります。

この当時の池田の体系は最悪で、毎日の美食で太っちょの体を横にして、婦人部幹部からマッサージを受けたり、足を揉んでもらいながら応対していました。午後10時前後、第一庶務より「終局です」と東京の学会本部秋谷会長(当時)に知らされ、創価学会の一日が終わるのです。

その後この部屋は、誰人たりとも入ることのできない聖域(性域?)となります。いくつかの証言によりますと、池田大作には密室での行動 パターンがあるといいます。それは、池田が真夜中に咳払いをすると、すぐさまお供の女性が隣の池田の寝室に行き、身の回りの世話をしなければなりません。

その世話とは「喉が渇いた」「胸を擦ってくれ」「足を揉め」などのスキンシップを要求してくるというのです。その後は、「男と女の世界」になっていくであろうことは、想像に難くありません。

このように、池田はラブホテル以上の雰囲気が漂う大風呂とシックな和室を持つ穏徴な世界を堪能しつつ、自分だけが使用できる全国各地の豪華施設を転々と利用していったのです。私が見た印象として、和室の大きさに比べ、とにかく風呂が異常に広かったのを記憶しています。

この豪華施設は宗教施設としていかがなものか、また、池田の欲望を満たす秘密の施設ではないかと世間から疑われて、明確な反論もできないまま、現在に至っているのです。さて、池田の夜の相手をさせられる第一庶務の女性職員は、ローテーションの順番か、もしくは池田の指示によって随行につく、とされるそうですが、いよいよO女史が担当する番になりました。

O女史は、その日の仕事に忙殺されたため、彼女は就寝後、なんと一回も目を覚まさず熟睡してしまったというのです。次の日の朝、池田からO子、お前は何度呼んでも起きなかったなあ、と嫌みを言われ、非常に恐縮してしまったといいます。O女史は、後日になって

この時に目を覚まさなかったお蔭で、幸いにも池田の毒牙にかからなかったことを知り、安堵したと語っていました。O女史にとっては幸いな話、池田のボヤキを考えれば笑ってしまいます。

さて、あれほど池田のお気に入りだった豪華施設が、一斉に取り壊されることになりました。それは、1977年、民社党が準備した国会での質問主意書の中で、当時の民社党の春日委員長が、霧島研修所の施設は、国の国定公園法に抵触する、と指摘したことから、これに池田大作が慌てふためき、すぐさま取り壊しを命令したのです。

それにしても莫大な金を使い建設した数多くの豪華施設を、なぜ潰したのか、大いに疑問が残ります。真相は、これらの施設に注目が集まることにより、到底宗教施設とは呼べない豪華専用施設の実態や、そこを舞台とした池田大作の破廉恥行状の実態が社会の目に赤裸々に晒されることを誰よりも恐れたからに他なりません。
(小多仁 伯 著 「池田大作の品格より」)

 

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